ブラジルのカーニバルやサンバの歴史

ブラジル=サンバ=リオのカーニバル

日本人がブラジルに対して思いこみをしている事はたくさんあるが、その中で一番多いのがサンバについての思いこみだろう。確かに、リオのカーニバルは華やかでブラジルを代表する行事であることは否定できないが、マスメディアを通じて入ってくる情報は、見栄えが良いように情報選択しているというのが実状ではないだろうか。分かり易さがメディアにとって不可欠な要素である事は否定できない。それが大衆を対象としたものならばなおさらだ。しかし、その事が誤解を招くのならば、一考する必要があると思う。ブラジル音楽と聞いてイメージするのはサンバ、サンバと聞いてイメージするのはリオのカーニバル、カーニバルといえば女性がかなりきわどい衣装を身につけて踊っている。単純で分かりやすいといえばそうだが、実際にブラジルを知る者にとってはあまりにも単純すぎると言えるだろう。

サンバが生まれた19世紀末のブラジル

サンバは19世紀末に発生した。それは、19世紀に入って当時の首都リオ・デ・ジャネイロにバイーアから奴隷や元奴隷が流入した事に端を発する。当時、プラッサ・オンゼ(第11広場)と呼ばれた場所にそれらの人々は住み始めた。この背景には1888年の奴隷制の廃止(1871年に出されたヴェントレ・リブリ法≪奴隷から産まれた子供は自由人とする法律≫も含めて)とプランテーションが衰退してきた事と関係がある。これらの黒人はサンバの原型となるような踊りや音楽(バトゥカーダなど)をリオにもたらした。そして、彼らはカンドンブレ(アフロブラジルの宗教、リオではマクンバと呼ばれた)の儀式の後などにパーティを開いて、これらの音楽やダンスを披露していたのだ。シアータおばさんのパーティは、そういった人々の間で有名だった。のちに伝説の演奏家と呼ばれる人々の多くが、彼女のパーティでルンドゥー、マルシャ、ショーロ、マシーシ、バトゥーキ(バトゥカーダ)などを演奏していた。その環境の中からサンバが生まれたのだ。

カーニバルとサンバが今の形になるまで

カーニバルはポルトガルの謝肉祭エントゥルードが植民者によってブラジルに伝わったものである。初期のカーニバルは白人上流階級のものであった。そして、カンドンブレが禁止されていたこともあって、サンバは警察によって危険視されていた。そういった理由から1920年代には、サンバは非合法なものと考えられごろつきの音楽だと認識されていた。サンバはファベーラに押し込まれ抑圧されながらも、それでも生き残り、1928年に、プラッサ・オンゼの近くのエスタシオで、最初のエスコーラ・ジ・サンバ(「サンバの学校」と訳される共同体。コミュニティセンター的役割も持つ)のデイシャ・ファラールが誕生した。30年代に入り、リオの都市再開発の為にサンバが生まれた黒人達の地域は取り壊され、多くはリオを取り巻く丘に住まいを移した。これにより生粋のサンバが聞ける場所がファヴェーラだけになってくる。伝統的なサンバを知るために、ノエル・ホーザがファベーラに通った話は有名である。この時期、サンバの亜種と呼べるような音楽が流行していたが、丘に住む人々はエスタシオのサンバを黙々と踏襲していた。1935年ジュトゥリオ・ヴァルガス大統領により、エスコーラにかけられた弾圧が解かれ、パレードに参加できるようになり、40年代に政府の民衆政策と観光局の応援を受けて、現在のようなコンテスト形式のサンバ・カーニバルが始まった。

カーニバルはリオ・デ・ジャネイロだけじゃない

しかし、カーニバルは何もリオだけのものでない。カーニバルの時期になるとブラジルの至る所でカーニバルが行われる。リオのように派手なカーニバルを行わず、慎ましやかな舞踏会を開くだけの所もある。カーニバルは地方によって千差万別であるが、その中でもリオのサンバカーニバルとサルヴァドールのカーニバルが有名である。また、リオのカーニバルを見てみると、実際には演じているのはほとんどが貧困層の人々であり、それを見ることが出来るのは高所得者に限られる。上流階級の人間はサンバの喧噪をさけるために地方にバカンスに出ることも少なくない。カーニバルはブラジル人共通のものというのは少し誇張がある。それは上流階級と貧困層の差が大きい(経済面においても、思想面においても)事が少なからず影響している為でもあるだろう。

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