サンバ・カンサォン(Samba canção)というメランコリックな音楽

怨歌と言われるほどに強烈なサンバ・カンサォン

私たちのブラジル人観からかけ離れた所に位置する、サンバ・カンサォンという音楽があります。そのメランコリックな歌詞は、とかく陽気なイメージを持たれがちなブラジル人とは相容れないものがあります。しかし、よくよく考えてみると、我が国にはブラジルのほんの一部分の情報しか入って来ていない。カーニバル、サッカー、アマゾン、それ以外にブラジルについて何を知っているだろうか?ブラジル人に対して大きな思いこみをしているのではないかと、少し考えてみてもらいたい。

話を音楽に戻そう。サンバ・カンサォンという音楽は、ボサノヴァが生まれる前にブラジルで流行していた。ちょうどラジオ放送の開始と重なり、ブラジル歌謡の発展期といえる時代に流行していた音楽の一つです。サンバのリズムを元にして作られたメロディアスで緩やかな音楽ですが、その歌詞は怨歌と言われるほどに強烈なものを持っています(全てがそうであるとは言えないが)。

「サンバなら知っているけど…」という人はたくさんいると思いますが、このサンバ・カンサォンを耳にしているブラジル音楽好きは少なくないと思います。なぜなら、ボサノヴァが誕生する以前にアントニオ・カルロス・ジョビンが作った曲の中にたくさんのサンバ・カンサォンの曲があるからです。そうとは知らないで聞いている人が結構いるのじゃないでしょうか。とりあえず、サンバ・カンサォンを知るためにブラジルでもっとも悲しい曲「誰も私を愛さない」の歌詞をちょっと見てみよう。

誰も私を愛さない。誰も私を求めない

「誰も私を愛さない。誰も私を求めない。誰も私を呼んでくれない、愛しい人と……」

ブラジル人らしからぬ歌詞に目を丸くした人もいることだろう。これにメロディーがつくと本当に暗い曲になります。ただ、個人的にはもっとブラジル人らしからぬのではないかと思う曲が幾つかあります。ルピシニオ・ホドリゲスの作った歌がサンバ・カンサォンを大衆に強く認識されたので、サンバ・カンサォン=怨歌という方向性ができました。ルピシニオ・ホドリゲスの詞は「ドル・ジ・ゴトヴェーロ(肘の痛み)」といわれ、男に捨てられた女の気持ちを歌ったものが多かったのです。

このサンバ・カンサォンやボサノヴァを語る上で中産階級という言葉がキーワードとして出てくる事があります。我々が考えている以上にブラジルは階級意識の強い国であり、その階級意識については「サッカー狂の社会学」(J・リーヴァー著 亀山佳明/西山けい子訳 世界思想社)という本に、サッカーというもっともブラジルらしいものを用いて書かれている。また、階級間の偏見も至る所に見られます。2001年1月に、ロック・イン・リオでカルリーニョス・ブラウンに対して起こった騒動などは、貧困層や貧困地域に対する強固な偏見を表しています。

中産階級の持つ特色には伝統破壊的な性質があると考えられる。実際、ボサノヴァが誕生した折には様々な批評家がその伝統破壊について批判した事実があり、それが世論にもなった。強固な伝統主義者からは、中産階級の伝統破壊はもっともひどいという言葉まで飛び出し、ボサノヴァ誕生のきっかけとなったサンバ・カンサォンやサンバ・ボレロをも批判したのだ。

伝統性の破壊の過程でうまれた中産階級の音楽

中産階級の特徴を伝統破壊という言葉で表現してきたが、あまりにも伝統破壊という言葉はネガティブな表現です。伝統を重んじる人々にとっては確かに伝統破壊かもしれません。しかし考えようによっては、様々なものに目を向けそれらを組み合わせて新しいものを作り出す、という創造的な動きだと言えます。そして、そのムーブメントが上手く表現されているのがボサノヴァであり(ボサノヴァという言葉が「新しい傾向」や「新しいやり方」という意味を持つのも興味深い)、その後に生まれたトロピカリズモ運動である。そう考えると、それらのムーブメントの原点にあるのがサンバ・カンサォンという音楽であると言えるだろう。伝統性の破壊という形で中産階級の音楽が作られていったということを如実に証明する原点でもある。

何故、サンバ・カンサォンはあれほどまでに悲しいものなのか?それは、ブラジルの中産階級のありようにヒントがある。アンジェロ・イシ氏はその著書「ブラジルを知るための55章」(明石書店)で中産階級を次のように表現している。『時には上にいる人間をうらやましがり、時には下にいる人間のために戦う義務感に悩まされる。富を目指して夢を膨らます一方、貧しさに苦しむ人々を無視したくてもできない。』上流階級と貧困層との板挟みにある心理的構造が、サンバ・カンサォンを生み出した。サンバという貧困層の音楽と洗練された上流階級の音楽の板挟みになり、その閉塞感が新しい音楽を生み出したのではないだろうか?それは、サンバ・カンサォンがサンバのリズムを持ちながら、一方で落ち着いたメロディーを持つことにより示されている。上流階級のような高みを目指すこともできず、また、貧困層の様にただひたすらに上に登る事のみを考えているわけでもない。どこに向けるべきなのか分からないベクトルが、ある意味で心理的澱みとも言える歌詞を生み出したのではないだろうか。

しかし、二つの階級の音楽が上手く融合できたのかどうかは別の話である。サンバ・カンサォンは確かにサンバのリズムが元になってはいるが、本来のサンバのリズムから見れば物足りないし、ボサノヴァの方が上手くサンバのリズムを表現しているだろう。メロディーに関しても、クラシックのような完成された音楽であるとは言い難い。何よりも、怨歌といわれる歌詞だ。恋(失恋)をテーマにした音楽は古今に多々あるが、あれほどまでにすごい歌詞はあまりないだろう。
上流階級好みの、芸術まで昇華したものでもなく、サンバのように悲しい歌詞ですら踊りに変えてしまう訳でもない。どちらにも属さないドロドロとしたものである。逆にそれが閉塞感のある中産階級の特質を表しているのだろう。

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