リオのカーニバルの歴史

意外とルールが細かいリオのカーニバル

リオのカーニバルは好き勝手に踊るお祭り騒ぎではない。確かに毎年日本でやっているニュースを見ると、好き勝手に踊っているように思えるが、実際はものすごく細かい規定がある。カーニバルのために一年間貯めたお金を全て使ってしまうというのも、あながち大げさではないように思えるほど真剣な勝負なのである。ある意味で一種のスポーツだと定義できるかもしれない。ここではあまり日本では詳しく知られていないサンバ・カーニバルの歴史ついて記してみたいと思う。

17世紀のカーニバルの起こり

最初のカーニバルは1641年に発生した。時のポルトガル皇帝の即位を祝い、リオの総督が騎馬隊で目抜き通りを行進したことに始まる。これ以来リオの市民達はカーニバルになると奇抜な格好をして、歌い踊りながら行進するようになったのである。19世紀になると黒人達もカーニバルに参加するようになる。それによって様々な打楽器が使われ、音楽的にも趣向が凝らされるようになる。本格的な音楽グループが登場したのは1855年のことで、60人からなる「カルナヴァル最高首脳会議」という変わった名前のブラスバンドであった。

サンバが生まれる前のカーニバル

19世紀末になると、「コルダゥン」、「ブロコ(ブロコ・カルナヴァレスコ)」と呼ばれる、組織だったグループが作られる。それぞれのグループが自らの特色を出すために、旗を作り、コスチュームを統一し、楽隊を加えてグループごとの差違をアピールした。これらの「コルダゥン」や「ブロコ」に属していたのは、エスタシオやその周辺に住む黒人達であった。特に、1899年に結成されたコルダゥン「ホーザ・ジ・オーロ」は、シキーニャ・ゴンザーガのマルシャ「アブレ・アラス」を発表してヒットさせる。
当時のカーニバルは、マルシャ、ルンドゥ、マシーシ、ショーロやラグタイムのような音楽が演奏されていた。サンバはというと、まだそれほど有名ではなく、ほんの一部の黒人達の間でしか知られていなかった。我々が知っているサンバ・カーニバルは全体から見ると、ほんの数十年の歴史しかないことが分かるだろう。

カーニバルがパレードになっていく時代

1900年代になると、「コルダゥン」や「ブロコ」に代わって「ハンショ」という大規模なコーラスとバンドを従えた仮装集団が現れた。「ハンショ」はテーマ性を持ったパレードが始まるきっかけとなり、その後のカーニバルに大きな意味を持つ集団である。シルクやベルベットを使用した上品な服装とマルシャ・ハンショという洗練された音楽が注目されるようになるが、世界的な不況の波にさらされて衰退することとなる。この機に「コルダゥン」や「ブロコ」がまた注目されるようになる。「ハンショ」から優秀な人材を引き抜いてグループを強化した事と、新しくサンバがカーニバルの音楽として登場してきたことが大きく影響していた。このころから「ブロコ」の体系を整えルールを確立しようとする動きが始まり、1928年に最初のエスコーラ・ジ・サンバ「デイシャ・ファラール」が生まれた。作曲家イズマエル・シルヴァ、ニルトン・パストス、ルーベンス・バルセロス、ベネージート・ラセルダ等、そうそうたるメンバーで結成された最初のエスコーラ(エスコーラ・ジ・サンバ「サンバの学校」と呼ばれたのは、彼らが出会った道の真向かいにちょうど学校があったためであると言われている)、翌年のカーニバルで、一躍脚光を浴びた。様々な理由から、3年で幕を閉じたデイシャ・ファラールではあったが、彼らの活動に刺激を受け様々なところにエスコーラができるようになる。現存するエスコーラの中でもっとも歴史の古い、「エスタサォン・プリメイラ・ジ・マンゲイラ」も1929年に設立。マンゲイラにはカルトーラやカルロス・カシャーサなどの有名なサンビスタ、後にはバーデン・パウエルまでもが参加していた。また、挑戦的で創造的な活動を続けるエスコーラ、「ポルテーラ」も1935年に設立される。

コンテスト形式のサンバカーニバルの発生

1933年のカーニバルから、リオの大手新聞社グローボがムンド・エスポルチボ社と共にスポンサーとなり、コンテストが行われるようになった。これにより優れた演出や楽曲が作られるようになり音楽的にも発展期を迎える。1935年にはジェトゥリオ・ヴァルガス大統領によってエスコーラの活動へ圧力が取り払われ、また、同年にリオ市長ペドロ・エルネストによって、コンテストに入賞した上位4位に賞金を与えるようにし、出し物のテーマにナショナル・イベントを選ぶようにした。民族的なテーマを持った出し物がカーニバルに登場するようになる。やがて、エスコーラの増加によってパレードを行う場所がなくなり、それによってエスコーラにランクを付け、演じる場所がランクごとに変わるというシステムを採用するようになるのである。
40年代に入ると政府の民衆政策と観光局の応援を受けて、現在のようなコンテスト形式のサンバ・カーニバルが始まり、1958年にはグループ別に順位を付けるようになる。これによって、下のランクで優勝したエスコーラは上のランクの最下位と入れ替わり、エスコーラの伝統と威信をかけてエスコーラ同士の激しい戦いが始まるようになる。エスコーラが隆盛の一方で、自由で個性的な「ブロコ」に参加してカーニバルを楽しむ人々も現れだした。現在、このブロコはブラジルだけではなくドイツ、日本、アメリカなどにも存在する。

オスカー・ニーマイヤーによるサンバドロモの建築

毎年、カーニバルが行われる通りには多量の観客が収容できる観客席が設けられたが、出費がかさんだことと交通渋滞などの問題が発生したために、1984年にマルケス・デ・サブカイ通りにサンバの花道(パサレーラ・ド・サンバ)が作られた。有名な建築家オスカー・ニーマイヤー(首都ブラジリアの主要な公共建築を行った建築家)が設計したこの道路型スタジアムをカリオカ達は「サンボドロモ」と呼んでいる。
カーニバルは80分間の間に全てが決する、各エスコーラは一年間かけた努力の結果をたった80分で示さなければならないのだ。現在のカーニバルでは、音楽やテーマ、コスチュームなどの評価基準をもって評価されており、サンバドロモで演じるためには「グループA」の16チームの中に属していなければならないのだ。また、グループAの下位2チームは、グループBの上位にチームと入れ替えられる事になっている。
華やかに見えるサンバ・カーニバルではあるが、実際にはエスコーラの伝統と威信をかけた戦いの場なのである。

この記事が参考になったらクリック&シェアをお願いします

おすすめの記事