ジェトゥリオ・ヴァルガスの巧みな大衆統制

文化統制下における大衆文化の発展

ジェトゥリオ・ヴァルガスの革命政府は新しい産業に順応し、それまでの伝統的な国民支配を補う手段である有権者による選挙を保証するために様々な新しい手法を取り入れた。そして、1932年には当時生まれたばかりの大衆コミュニケーションにまでその活動領域を広めた。

それによってラジオ局の所有権が政府の管轄に移ったことは、様々な分野における大衆文化が政府の監視下におかれることを意味していた。また、この時期にサッカーが大衆文化の仲間入りを果たすことになった。

ラジオの統制と職業音楽家の発展

1930年代以降、政府の活動領域はそれまでの伝統的な部分にとどまることはなかった。1932年には、重要視はされていたが、まだ十分には発達していなかったラジオなどにまでその活動領域は広げられた。最初にブラジルでラジオ放送が始まり、電波が発信されたのは1922年のことであったが、リオ・デ・ジャネイロの中心からかろうじて周囲に届く程度のものであり、このレベルの放送がサンパウロ、サントス、レシーフェといった他の都市でも行われた。

この時代においてラジオを聞くということは、どちらかといえば冒険であり愛好者の自己満足のためにあったようなものだった。ラジオ受信機も少ししかなく、そのどれもが不安定な信号をとらえるために複雑な操作を必要とした。また、放送局もアマチュア的な性格を持ち、同好会のようなレベルでしかなく、放送された番組も、長い講演、本の一部分の朗読、クラシック音楽といった限られた聴衆に対しての内容であった。しかし、そういったアマチュア的な性格のラジオ局を発展させるために投資しようという動きは広まっており、献身的な協力者がいたことはラジオ局の存続に貢献していたが、協力者のほとんどが広告を放送しようというアイディアには嫌悪していた。そのような状況にあったラジオという分野に政府は干渉したのである。1932年に政府の命令によってラジオ放送のシステムは統制され、広告媒体を認めるという恩恵と引き替えに、放送権を州の認可に委譲することになった。

特権は政府にとって好都合であり、ポピュラーミュージックを聴くような人々に対しての番組を構成し、人々を引きつける広告を流した。その市場が特権によって守られていたこともあり、やがて放送局の大半は政府を支持するようになった。それによる変化は急激で、短期間でラジオの時代が来たほどであった。音楽大会(オーディション)を行うことでポピュラー音楽は保持され、他方では、それを聴くためのラジオ受信機が大衆に広まる要因になった。それは、最終的には広告への投資をもたらすことにつながった。

やがて、ラジオはブラジルのポピュラー音楽を普及するための基本的な要素に変わり、フランシスコ・アルヴェス、オルランド・シルヴァ、カルメン・ミランダやノエル・ホーザといった国民的なアイドルがその時代に生まれた。それらのアーティストは大都市において常に人々を魅了した。生活手段として音楽活動を行うポピュラー音楽の作曲家が生まれ、そのような作曲家の成功は、政府の統制下にあった新しい大衆コミュニケーションの媒体が持つ効用を広く示すこととなった。

プロサッカーの誕生

たとえ政府による干渉がなくても、いずれにせよサッカーは1930年代には改革へと転換する道をたどっていただろう。サッカーは前世紀の終わりに、イギリス人がエリートが行うスポーツとして流布する目的でブラジルにもたらした。しかし、その目的からは遠ざかり、サッカーはまもなく通りで取り入れられ、他の人種の人々(ムラート、貧しい人々、移民や黒人さえも)がプレーするようになった。クラブによって組織された選手権はあったが、もっぱら金持ちだけが交流し、黒人や非会員といったすべての人種が交流を持つことは禁止されていた。

しかし、ムラートの名選手の存在は勝利を可能にするように思われ、彼らの周りを取り巻いていた禁止項目は取り払われるようになった。リオ・デ・ジャネイロにあるフルミネンセは、チームのムラートの選手に対して、ファンの前に立つときには顔におしろいを塗らせるといったおもしろい方法を選択し、そのような要求を実行させることで、表面上はピッチの上に白人だけを立たせようとした。あらゆる障害を取り払うために、そう彼らが手間取ることはなかった。その技術を生み出す彼らを見るために観衆はスタンドにあふれ、名選手の存在は一般大衆を育てることになった。

受け取る報酬も跳ね上がった。巨大なクラブももっぱらアマチュア的な外観を保ってはいたが、こっそりと選手に大金を払い、金持ちで尊大なクラブ首脳にとって大切な選手権のために選手を強化した。1933年には大きな変化が起こり、ブラジル人はよりいっそう人々を引きつけるショーを作り出した。それを見るために金を払うことができる人々の存在は、スポーツがプロ化される要因となった。それ以降、競技人口は増加した。ほとんどの通りで黒人の子供がボールを蹴るようになり、全ての大きな都市にはプロチームが生まれた。1938年には国民が受け入れた国際的なスポーツが、ワールドカップで三位に入賞するという、最初の大きな成果を目の当たりにすることになる。

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