ポルトガル文化とブラジルへの影響

なぜ、ブラジルの人種混交は進んだのか?

ポルトガルが、どうして人種(文化)混交に寛容だったのかということは疑問が残る点であり、アメリカ合衆国のように白人と黒人の間にくっきりと線を引くことが、ブラジルにおいて行われていないことは不思議なことであるが、ポルトガルの歴史をひもとくことによって解決出来ることも少なくはない。

イベリア半島の歴史が文化・人種の混交の下地となった

イベリア半島の歴史はキリスト教とイスラム教の争いによって語られることが多く、ある時にはキリスト教徒が、またある時にはイスラム教徒が互いに支配を行っていた。その様な状況の中で、文化の混交が始まると同時に混血が始まった(古い時代を挙げれば、ローマ帝国とゴート族も挙げられる)。奴隷制支配と性的搾取は切り離せないものであり、これがポルトガル人の混血を促した。ポルトガル人には白人とアラブ人、黒人の血が流れ、アズレージョ(青色の装飾タイル)のようなムーア人の文化がポルトガルに持ち込まれた。清潔と水に対する感謝を表すという、本来の意味は失われたが、この文化はブラジルにまで伝わっている。

宗教的なモラルの低下が寛容さに

浅黒い肌を持ち美しい容姿のムーア人は、その美しさから白人女性から妬まれるほどであり、ブラジルのインディオ容姿は、ムーア人のそれを思い出させるものであった。また、ポルトガルが植民により人口減少に悩まされた結果、教会は婚前妊娠や同棲を許し、それまで婚姻が認められなかった者を認めたことによりモラルがなし崩しになっていた。このような状況の中、ポルトガル人は新大陸へと渡りインディオを相手にハーレムを作ることになったのである。ポルトガル人自体のモラルの低下以外には、ブラジル送られた人の中には性犯罪者などが含まれていたという原因を挙げることが出来る。

一方で、ブラジルの大地はムーア人に恩恵を与えることになった。社会的な立場が一から作り出されていく新たな大地では、ムーア人にとっては社会的な成功のチャンスがあり、多くのムーア人が植民地へと旅だったのである。一見するとポルトガル人は白人のように思われがちだが、このように人種の混交が行われていたために、異文化への寛容と混血に影響したと考えられるだろう。

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