ブラジルの奴隷制度とブラジル産業の関係
ブラジルにおける奴隷制度は、産業の発達と大きな関連がある。
1500年にペトロ・アルヴァレス・カブラルによって発見されたブラジルは、アメリゴ・ヴェスプッチのその後の探査によって大した価値のない土地であると考えられていた。
東洋貿易が生み出す巨利に目がくらんだために、宝石や絹、香料、貴金属が眠っている様子もないブラジルに価値を見いだせなかったのだ。
初期のブラジルではパウ・ブラジルというブラジルの国名の由来となった木(染料になる)がヨーロッパに輸出されていたぐらいでした。
しかし、東洋貿易に翳りが見え始め、ブラジルの沿岸部を諸外国が荒らし始めると、さすがに放っておけなくなり、大規模な植民が行われた。その際に持ち込まれたのが砂糖黍だった。
砂糖黍ブームとインディオの奴隷
1500年代中頃なると、先の植民の際ポルトガル人が持ち込んだ砂糖黍がブラジル北東部の土壌と相性が良かったこともあり、たくさんの砂糖黍が植えられた。
ブラジル産業は砂糖黍ブームといわれるほどの熱を帯び、主要産業がパウ・ブラジルから大土地所有制による砂糖黍の栽培への移行した。
多くの人間がブラジルに押し掛け、それは同時に砂糖黍生産のため大量の労働力が必要になること示していた。
当初、植民地開拓に必要な労働力はインディオの奴隷によってまかなわれていたが、ポルトガル植民が増加し開拓が進んでいくにつれその労働力が不足する状態に陥った。
ポルトガル人たちは労働力が足りなくなると「土人狩り(エントラーダ)」を行い、インディオを捕獲していた。しかし、そのことにより徐々にインディオ自体の数が減ってきはじめたのである。
それまで労働力として頼みにしていたインディオは、ポルトガル人がヨーロッパから持ち込んだ未知の(インディオにとっては)伝染病で死亡したり、土人狩りを恐れて奥地の方に逃げてしまったり、あるいはポルトガル人による虐殺によって数が減ってしまっていた。
そのため、ポルトガル植民者たちは欧米の手法をまねて、インディオよりも体格で優り豊富に存在していた黒人をアフリカ西海岸から買い付け、インディオに変わる労働力として使役しようと考えた。
黒人奴隷によりブラジルの砂糖黍が世界一に
インディオが定住性を持たず、常に十分な人手が必要な砂糖黍の栽培には向いていなかった事や、黒人の方が身体的、文化的側面においてインディオよりも優っていたことにより、黒人奴隷は労働力として大量に導入されることになった。
黒人の使役により、16世紀後半から17世紀においてブラジル北東部の砂糖黍は世界一の生産額を誇り、砂糖黍により富を得た農場主たちはバロック様式の荘厳華美な教会を建築した。
それと同時に、ブラジル国内にあった他のヨーロッパ諸国の領地を買い上げ、領土を拡大した。ポルトガル本国にかなりの富が吸い上げられたにせよ、砂糖成金の生活の豪華さはリスボンの貴族の生活を上回り、砂糖黍の魅力は植民を加速。
結果として多くの黒人たちが奴隷としてブラジルに連れてこられることになった。現在、植民地時代の代表的な建築物がサルヴァドールに多く残るのは、砂糖黍の収益、つまり黒人の労働があったからである。
サルヴァドールのペロウリーニョ広場で売り買いされた黒人奴隷は、砂糖産業が隆盛していた時期はサルヴァドールやペルナンブーコといった北東部を中心に使役されていたが、やがて、産業の中心が移行するにつれその居住地を拡大することになった。
ミナス・ジェライス州に金鉱が見つかると、黒人奴隷たちは抗夫としてそちらに投入され、また、1820年以降コーヒー栽培が行われるようになると、リオやサンパウロの郊外にあったプランテーションへと送られた。
こうしてブラジルの産業の中心が転換していくことによって、黒人の居住地域が拡大していくことになる。
奴隷制廃止運動の波がブラジルに
19世紀になると、奴隷制を取り巻く状況がにわかに変わりはじめる。イギリスが自国領土での奴隷貿易を禁止した関係からブラジルに圧力をかけ、奴隷貿易の廃止を要求した。
当初、ブラジルの動きは積極的なものではなく、対外的で全く遵守されることがなかった法律を制定した。しかし、それにイギリスが納得するはずもなく、1850年に奴隷貿易を廃止する法律を作ることになった。
その後、欧米の奴隷制廃止運動やアメリカの奴隷制廃止の影響を受け、ブラジル国内でも奴隷解放の動きが見られるようになりはじめた。皇帝ペドロ二世や教会が奴隷解放の必要性を認めはじめると、奴隷解放への画期的な法律「ヴェントレ・リブリ法(新生児自由法)」(1871年)が制定され、奴隷の子供を自由にする上に、奴隷主に8歳までの養育義務を負わせる規定を設けた。
しかし、8歳になると賠償金を国家からもらって子供を国に引き渡すか、もしくは子供を21歳まで使役する事が出来るという条項があったため、多くの奴隷主は後者を選択し、この法律では奴隷解放を推進する事にはならなかった。
1880年代に入ると反奴隷制感情が高まり、1885年に60歳以上の奴隷を自由人のするという法律「セクサジェナリオ法(60歳法)」が制定されたが、それまでの状況を一転させるものではなく、単に働けない老人奴隷を体よく追い払う口実になっただけであった。
1880年代後半には、奴隷制廃止は議論の上だけでなく実力行使を伴ったものになった。
サンパウロでは「カイファゼス」と呼ばれる組織が奴隷の逃亡を助け、また、リオやペルナンブーコなど各地でも奴隷の逃亡が頻発した。
そして、そのような反奴隷制感情の高まりの中から、1888年に「黄金法」が制定され、ブラジルの奴隷制は終了した。
「黄金法」はこれといった反対なしにすんなりと可決されたが、それには当時の黒人奴隷を取り巻く社会状況が強く影響していた。もはや、黒人奴隷は必ずしも必要な労働力とみなされていなかったのである。
黒人が得た名目上の自由とファベーラ(貧民窟)の発生
サンパウロのコーヒー産業などでは労働力が黒人奴隷から外国人労働者に移行し、奴隷の労働力としての価値が下がっていた。
また、セアラーやアマゾナスでは1884年に奴隷制は廃止しており、北東部においても、労働形態が奴隷制から隷属農民に変わっていたのである。それ以外の地域でも、黒人奴隷は労働力としてよりも財産としての価値が高かった。
何よりも奴隷自体の数が減少しており、1888年におけるブラジルの奴隷人口は総人口の5%にすぎなかった。
アメリカのように奴隷制廃止が戦争にまで発展しなかったのは、このような状況があったためである。しかし、この奴隷制の廃止は一見すると好ましいことのようでもあったが、問題も含まれていた。
確かに黒人奴隷は自由になったが、彼等の生活を支援するような社会的な仕組みがなく、政府も教会も黒人に対して手をさしのべることはなかった。
そのため、職を求める黒人達を都市部に移動させることとなった。
奴隷解放直後の黒人は、まだ大農園にいた頃とたいして変わらぬ地位にあった。支配階級にあった白人達は奴隷解放後も、自分たちの地位が揺るがないようにと考えを巡らせていたためである。
黒人は確かに自由を得たが、それは名目上の自由でしかなかった。
そのため、奴隷の時と同じように黒人同士が集まり、互いに助け合いながらファベーラに住むことになった。
貧しさに耐えてきた彼等の中で、政府によって禁止されていたカンドンブレーが行われ、サンバが生まれてきたのも必然のような気がする。彼らは押さえつけられていたアイデンティティをカーニバルという場を借りて発露しようとしていたのだから。